2019LA研修 関根 冴香

マンザナ―訪問記

マンザナへの旅路は、何気ない一言から始まっていた。

『明後日からマンザナに行くから、荷物は必要な分だけをまとめて。』

マンザナへと旅経つ二日前のこと。研修のコーディネーターを務める日系4世のブライアンさんが、荷物を分けやすいようにと用意してくれたトートバックを、私たちに手渡しながら言った。ロサンゼルスに降り立ってから休むことなく動き回り、疲れていた私は、言葉の意図をあまり考えることなく、彼の一言をただぼんやりと聞き、荷造りを進めた。振り返れば、大統領令により日系人が立ち退きに遭った状況に少しばかり似ているように思う。

2月6日、手に持てるだけの荷物を抱え、強制収容所のあるマンザナへと、私たちは出発した。1942年2月、大統領令9066号が発せられ、日系人は1週間以内に立ち退きを余儀なくされた。同時期に強制収容所に入れられていたのは、世界でもユダヤ人だけだった。収容者はマンザナへと向かう道中、殺されるかもしれない恐怖におびえたはずであろう。ふと窓の外を眺めていると、はじめは賑やかだったロサンゼルスの街並みも、道を進むほどに人気がなく物寂しい風景へと移り変わっていった。6時間の長旅の末、着いたに先は、訪れた人々が『何もない』と口を合わせて言う意味がわかるような、そんな景色が広がっていた。ただ1本に伸びた道、高々と聳え立つ山脈、冷たく吹き荒れる風、舞い上がる砂埃。荒れ果てた土地に、数千に及ぶ日系人が生活を共にしていた、その事実を疑わずにはいられないほど、無に近かったのである。

[改装されより快適になったバラック内部の様子]
 マンザナ強制収容所の跡地には、収容者の住居、食堂や共同トイレがレプリカにより忠実に再現されている。特に人々の生活の変貌ぶりが顕著に表れていたのはバラックだった。人々がマンザナに来て間もない頃のバラックは、隙間から風が抜け、薄い壁から声が漏れてしまう乱雑なつくりをしていた。一方で、労働を通して収入が得られるようになった頃のバラックは、補強された壁や、ソファやテーブルなどの調度品が目立ち、生活が豊かになったことが見受けられた。驚くことに、コメや野菜の他にも、ワイン等の嗜好品までも自給自足していたという。

研修を通じて実感したのは、幾度となく苦しみを乗り越え、独自のコミュニティを形成してきた、日系人の強さである。現にアメリカで日系コミュニティが存在しているのは、彼らのおかげだと言っても過言ではない。これからより人のルーツが複雑かつ多様化していく中で、一人ひとりの個性に向き合い、尊重することがコミュニティで求められていくだろう。


関根冴香(せきね・さえか)

埼玉県出身。大学2年次にスペインで交換留学し、欧州の政治経済を学んだ。海外旅行が趣味でこれまでに18カ国を訪問。