校外学習 JICA横浜 海外移住資料館訪問

野菜や花などで飾られた神輿の前で

 私たち3年芦沢ゼミ生は、2021年11月11日(木)、横浜にあるJICA横浜の海外移住資料館を訪問した。4つのグループに分かれ館内の様々な展示を分担して鑑賞し、それぞれが担当した部分を中心に、海外で暮らす日本人移住者とその子孫である日系人が現地でどのような経験や貢献をしてきたのかを学ぶことが出来た。事前学習で学んだ移民の歴史を、館内にある豊富な資料を通してより噛み砕いて理解することに繋がった貴重なゼミ活動となった。

 以下、館内のそれぞれの常設展示や企画展示ごとに、内容や個人の意見を記したいと思う。


海外移住の歴史

 このコーナーでは、海外移住の歴史を主に文献や写真を通して学ぶことが出来た。その他、都道府県別の移住者数を立体的に表した模型や、移住手続きのための書類等、視覚的にわかりやすい資料も多数。

 海外移住の変移を大きく5期にわけて、それぞれの時代の主な出来事が時代の流れに沿って解説されていた。以下が5期の大まかな概要。

第1期 〜1884

 1854年に日米和親条約が結ばれ、日本が開国したのち、海外渡航も行われるようになった。学業や商業のための海外渡航を促す措置がとられ、現在のパスポートの原型となる“御免の印章”が発行されるようになった。

 不平等条約締結国の意向を尊重した措置であったため、 海外渡航が許されるようになっても、日本人がこぞって海外に出かけることにはならなかった。

第2期 1885〜1907

 はじめに集団で海外に赴いたのは、ハワイと北アメリカの西海岸であった。1881年頃から、驚異的な産業発展を遂げていたアメリカの知識や技術を学ぶため、 合衆国西海岸などに居住し活動しはじめていた。 そのほとんどが若い独身男性であり、ハワイあるいは北アメリカにおいて一時滞在を意図していた。帰国し、出世することを夢み、日本に資金を送る形がほとんどだったため、この頃の海外渡航は出稼ぎと呼ばれることになる。

 アメリカでは、日本人移民排斥の声が高まるなど、日米関係の悪化になる原因が生まれた時期でもあり、日本人移民問題の根本的解決が望まれるようになった。

第3期 1908〜1940

 日本人移民の問題を解決するため、ハワイ及びアメリカ本土への渡航が制限されたが、日本人移住者への非難や攻撃は一部続いており、その後アメリカは日本人移住を全面的に禁止した。

 一方、同時期20世紀初頭に海外移住熱は高まりをみせ、日本人の北アメリカ地域以外の移住が活発化した。南アメリカへコーヒー農園等での労働を行う移住者が増えた。作業、生活面どちらにおいても困難はあったが、徐々に社会、経済的基盤が作られていった。

第4期1941〜1945

 太平洋戦争が勃発したこの時代は、日本人の移住が中断しただけでなく、既に移住している北米本土の日本人が敵対視された。大規模に日本人家族が、強制立ち退きや収容を迫られた歴史もあるという。第二次世界大戦中は中南米で日本人の特定地域への移住や都市移動が行われた。

第5期 1946〜1999

 日本の敗戦によって日本人移住者は精神的に大きなダメージを受け、特に現地に住む日系2世の世代は、日系としてのアイデンティティを否定する傾向すら見受けられた。一方で敗戦した母国日本に住む同胞に手を差し伸べ支援をした移住者も多くいた。

 戦後の日本人移住の変容としては、帰化が可能になったこと、南米への移住が再開したこと。そして、北アメリカでの日本人強制収容の補償問題の解決が挙げられる。

 今では当たり前になっている海外渡航、移住の歴史の移り変わりを、展示資料とともに学べる機会だった。時代ごとに変容していく移住政策や移民問題から、今後のために学べることが多くあると感じた。資料の中には、夫から妻に当てた移住後の現地での注意事項リストや、帰国後の帰化テストなどの展示もあった。海を越え異国の地へ移住すること、また帰国することは覚悟や困難を伴っていたことをより深く知ることが出来た。

 移住先では、不当な扱いを受けることもあるが、その困難の中でこそ、親日の動きや、日本人移住者のコミュニティの発展があったのだと思う。海外移住に関して、受入れ国側が移住者を排除する動きは、日本人移民のみならず他の人種でもありうることである。今回は日本の視点から歴史を見たが、受入れ国側の視点からも移住について学ぶことで、今後の移住、移民問題の解決の糸口になるのではないかと考えた。(箭内)

 日本人移民の歴史の非常に重大な出来事として、太平洋戦争がある。アメリカ大陸に移住した日本人とその家族は敵性外国人とみなされ、大きな犠牲を強いることになった。例えば、北米では戦時化の国家安全保障を理由とする行政命令によって、日系人は人里離れた地域に強制退去させられた。また、南米においても、最も厳しい措置が取られたのはペルーで、日本社会の指導者とみられた160人は戦争勃発直後に検挙されペルーからアメリカに送られ収容所に監禁された。このように、日本人移住者とその家族が被った経済的及び精神的な打撃は非常に大きかったことが伺える。しかしながら、戦後には、こういった状況下で日本人としてのアイデンティティを否定する南北アメリカの日系二世などが多い一方、日本に親戚を持つ一世世代の多くは疲弊した日本に援助の手を差し伸べるべく、「アジア救済公認団体、 略称LARA」を通して食料、衣類、医薬品、生活必需品などを日本に送ったという歴史がある。多くの被害を被っても日本人の「同胞」を助けるべく奔走した日系人がいたということは忘れてはいけないと感じた。(脇元)

われら新世界に参加す

 このコーナーには、当時の日本人がなぜ海外に行ったのか、どんな仕事をしていたのかが、様々な物品の展示とともに示されていた。日本人が海外に行った理由として、家族を養うために仕事を求めていたからということは学習していたが、海外移住を呼びかけるポスターがあったことを初めて知った。ポスターは海外移住を非常に強く進めるようなデザインで、日本人の海外移住を積極的に奮い立たせるきっかけの一つであったことが想像できた。

 また、海外移住した日本人は農業を中心に多様な仕事についていたことも分かった。中でも最も印象に残っていることは二つある。一つ目は、コショウ栽培である。日本人移住者はアマゾンにコショウを持ち込み、アマゾンでコショウ栽培を成功させた。二つ目は、製材業である。日本人よりも体格も良く体力があったスウェーデン人ばかり雇われていたが、勤勉に働く姿に段々と日本人も製材業に携われるようになった。これら二つから、日本人移住者が決められた国で限られた仕事だけをするのではなく、自分たちの力で活動を広げて日々努めていたのだろうと思った。

 たくさんの学びを得ることのできた課外授業だった。こういった歴史を学べる場所に行く経験が中々なかったので、とてもいい機会になった。またゼミ生でこういった学びの場に足を運んで、知識をともに蓄えられるといいなと思った。(赤尾)

移住先で、様々な食糧の栽培労働に従事した日本人が
使用していた農耕具

 日本から海外へ移住した人々の移住背景や移住までの道のり、移住者の仕事、生活などを、当時の移住奨励のポスターや仕事に従事されている方の映像などを通してじっくりと学んだ。私たちが生まれるよりもずっと前に、海を越え、異国の土地で生活することを決心した方々のたくましさを感じるとともに、現地の発展に寄与する働きをしたり、日本人コミュニティを形成したりすることで自分たちの生活を築きあげてきた努力を感じた。特に、製材業について、現地の方よりも体力の劣る一方で、勤勉さでは評判の高い日本人が活躍したという部分に感銘を受けた。

 少子高齢化や人口減少が問題視される日本では、今後移民の受け入れ対策なども課題になると思うが、今回の学びを生かしながら自分なりに学習を続けていきたいと思った。(豊島)

ニッケイ・ライフ・ヒストリー

 このエリアでは、一世の人達の苦労や二世以降の人達の誕生から老いるまでの写真が展示されていた。海外移住という当時では未知の領域に足を踏み入れ苦労する一世の方達だったが、子供たちが生まれることで生活に苦労を感じなくなり楽しく過ごせるようになったそうである。当時では日系人のニ世同士で結婚することが多かったらしいが、三世にもなると非日系人との結婚が珍しくなくなったという内容も展示されていた。写真以外での展示物では、昔の大きなカメラや在LA日本領事館へ提出した出生簿などがあった。自分が一番衝撃を受けたのは、山口県からハワイに移住した夫婦の子孫の写真である。その写真には、五十人以上の三世から六世の日系ハワイ人が映っていた。たった2人のハワイに移住をした日本人夫婦がここまで大きな家族の輪を広げていることに驚いた。(今尾)

日本の中のニッケイ/世界の中のニッケイ

 この展示には、「一世の移住先で、子孫たちは非ニッケイの人たちとともに文化活動に勤しみ、文化に新しい息吹を吹き込んでいる」と説明されていた。

 このブースでは、世界各地のニッケイ社会で行われている祭りのポスターやTシャツ、太鼓等が展示されており、ニッケイ人の文化活動とアイデンティティについて学ぶことができる。展示されていたポスターは、主な移住先であったブラジルとハワイのものが多く、現地の言葉であるポルトガル語や英語のみのポスター、それらの言語に加えて日本語で説明されているものの2種類が展示されていた。日本のお祭りでお馴染みのお神輿や法被に限らず、相撲や狂言など、日本国内の祭りでは通常行わないような催し物まで行われていたことがポスターから読み取れた。このことから、ニッケイ人にとっての祭りはただ楽しむものではなく、文化の継承という意味でとても重要なイベントだということを感じた。日本に暮らしていれば、相撲や日本舞踊などはお金を払えばいつでも楽しめる環境にある。しかし、海外に在住するニッケイ人にとってそれらを楽しむことは容易ではなく、そのために祭りの催し物の一つとして組み込み、楽しむと共に文化の継承をおこなっていったのではないかと推測した。

 また、私は以前の5週間の留学を通して、味噌汁が無性に飲みたくなったり、日本の音楽が聴きたくなったりと、日本から離れることによって、日本文化を恋しく思う気持ちが強くなった。ニッケイ人にとって海外に暮らすことは数週間の話ではないので、余計に日本人としてのアイデンティティを強く感じたり、日本を意識したりする機会が多かったのではないかと思う。その中で、祭りなどの文化活動は、1世にとって日本にいた頃に思いをはせ、文化を継承する機会となり、2世以降にとっては親や先祖の文化を知る機会、そして現地の住民にとっては異文化を知る機会になり、どの立場の人にとっても価値のある大切な活動だと感じた。(成毛)

「日系人のレシピ—受け継がれる日本の味と家族の記憶」

 海外に渡った日本人移民は、教育・文化・スポーツなど様々な分野で移住先の国々に貢献してきたが、無名の日系人、一般の人たちによる貢献も忘れてはいけない。ブラジルにおいて、それを象徴する「ジャポネース・ガランチード(japonês garantido=信用できる日本人)」という言葉がある。日本人が概して勤勉で信頼できる人であると、一般社会に広く評価されていることをよく表している。この普通の人々の中で、今まであまり目を向けられてこなかったのが、家庭でのお母さんとしての女性の役割である。日本人の移民史において、婦人が家事や内職を担ってきたことは非常に重要な側面である。その婦人による貢献を記録するものとしてレシピ集がある。そこには、異国におけるお母さんの努力、工夫、そして子供たちや次の世代へ日本の味を伝えたいという想いが込められている。ここでは、様々な種類のあるレシピ集を紹介するとともに、女性の貢献や食の変遷、レシピ集の意義を紹介したいと思う。

・レシピ集の分類

 ここでは、特徴的なレシピ集を以下の分類で紹介する。

 1. 仏教会など宗教団体により出版されたレシピ集

 2. 農協の日系婦人などにより書かれたレシピ集

 3. キッチンカーのレシピ集

 4. エスニックフードとしてのレシピ集

1. 仏教会など宗教団体により出版されたレシピ集

 北米の日系コミュニティでは、仏教会を始めとする宗教団体が重要な役割を果たしている。6月から9月にかけて各地の日系コミュニティで行われる「Obon」フェスティバルは、日本のお盆からは変容しているが、このObonを通して現地の日系以外の人たちも日本文化や日系コミュニティとの関わりを深めている。そしてその会場では、屋台などが出て食文化が披露される。南米にも仏教関係団体は存在するが、北米ほど浸透していない。その理由に、当時日本政府の移民政策としてカトリック教国への移住促進のため、宗教指導者のブラジル渡航を控えていたことが考えられている。一方で、ハワイにおいて仏教団体が非常に多いことが、下記の「在外法人団体名簿」(外務省通商局編集、1932)のデータから確認できる。

「北米・ハワイにおける日系宗教団体の状況」
外務省通商局「在外邦人団体名簿」:1932年 より作成

 ハワイにおけるこの高い値をその当時の日系人人口(139,631人、米国国勢調査、1930)から計算すると、日系人約1,400人あたり1団体、4人1家族とすれば、約350家族あたり1団体という大変高いレベルで浸透していることが分かる。レシピ集を作成しているのは婦人会の人たちで、定期的に繰り返し発行されたそうである。以上のことから、仏教会が広く日系人社会に浸透していることがよく分かる。そして、その仏教会がレシピ集を作成することは、日系人の食文化を広め、伝承することに大きく貢献していることでもあると考えられる。それだけ日系人社会において、仏教会は重要な団体だと言えるだろう。

2. 農協の日系婦人などにより書かれたレシピ集

 ブラジルでは、2種の有名なレシピ集がある。一つはブラジル農協婦人部連合会(通称アデスキ)の「Delícias da mamãe(おふくろの味)」で、もう一つは佐藤初江著「実用的なブラジル式日伯料理と製菓の友」である。

 アデスキの会員は農業者の妻で、地元の食材を活かす料理を作る工夫をしてきた実践者として、その生活の知恵を本としてまとめている。「Delícias da mamãe」は当初、組合所有の病院用救急車購入とコミュニティ教育の資金調達を目的として出版された。以降は、家庭の食文化や日本食について記録するため、2010年の第4巻まで発行されている。時を経て和食ブームが広がりを見せると、食材だけでなく料理名まで日本語の音訳で記載されるようになった。さらには、レシピの提供者に非日系人も現れるなど、異国における日本食の広がりが新たな段階に突入したことを示している。

 もう一つの「実用的なブラジル式日伯料理と製菓の友」は1934年の初版以来、現在まで読み継がれているロングセラー本である。1924年にブラジルへ渡航した佐藤初江によるものであり、ブラジルでの一般的な食生活に関する指南書のようなものである。この著書の特徴はまず、基本的な内容は昔から変わらず、その当時どのような食材や調味料が手に入り使われていたかを知ることができることである。もう一つは、著作内で使われている言葉がいわゆるコロニア語で書かれていることである。ブラジルの日系人、特に一世の間で使われていた独特の言語表現を見ることができる。

コロニア語を使ったレシピ

 ここまでの内容で面白い発見がある。まず、レシピ集は単にレシピが載せられているだけではなく、日系人の食生活まで知ることができる。時期によってどのように食が変遷していったのかを学べる食の歴史資料のようなものだと感じた。また、レシピを通して当時使われていた言語まで知ることができるという魅力がある。

紹介したレシピ集

3. キッチンカーのレシピ集

 キッチンカーのレシピ集とは、トラックフードやフードカートなどと呼ばれる、キッチンカーで提供される食事のレシピ集のことである。キッチンカーは、北米では大変身近な存在となっている。オレゴン州ポートランドでは、キッチンカーのための一定区画が確保されており、一般のレストランと同様の役割を担っている。そして、そこでは「Bento」の文字が目を引く。Bentoと言っても日本の弁当とは全く異なり、単にテイクアウトの料理のことを指している。キッチンカーのオーナーは多様なエスニック背景を持ち、それゆえそのレシピは実に斬新で個性的なものが多い。また、そうした独自の工夫を加えた料理が現地の人々に人気がある。特徴的な点として、キッチンカーとそのレシピ集は北米において顕著なものであるが、南米ではあまり見られない。このように、北米と南米を比べた時に地域独自に発展したものがあることが分かる。なぜそうした差異が出るのかについて、非常に興味深いと思った。

様々なBento

4. エスニックフードとしてのレシピ集

 ブラジルやアメリカ、カナダ、ハワイは、世界的に見ても特に多様な移民から成り立つ多文化社会である。こうした背景から、これらの国では異文化との交流による食の変容をテーマとしたレシピ集が発行されている。

 1986年、バンクーバー市政100周年を記念して、ブリティッシュコロンビア大学の大学婦人クラブは、エスニックコミュニティの食文化と歴史を紹介するレシピ集を発行した。そこでは、16の国と地域から渡ってきた移民グループに関する概要と、メニューやレシピの紹介をしている。1981年時点でのバンクーバー市内(5,300人)やバンクーバー大都市圏(11,800人)の日系人口も記載されている。

 ハワイでは、ハワイ航空客室乗務員により、「ハワイのるつぼ」というレシピ集が発行されている。多様な人種と食文化の融合をよく表しており、タイトルには3つの区分がある。第一に個人の名前、第二にエスニック名や地域名、最後に日本の食材や料理名である。レシピを見ると、日本から寿司やスキヤキ、醤油などが受け継がれていることが分かる。日本の食文化がハワイで根付いているとともに、現地の食文化と混ざり合っていることも確認できる。

 日系ブラジル四世のルイス・ハラさんが書いた「日系料理—和食の新しいスタイル—」では、日系人としての自身の経験と、ブラジルとペルーの日系人シェフとの交流を通じて得た知識をもとにレシピを紹介している。日系料理を南米料理と和食のマリアージュ(組み合わせ)と考え、日本の家庭料理を原点としながら、一流シェフが手がける「新しい和食」を盛り込んだ100種類以上のレシピが紹介されている。

 エスニックフードとしてのレシピ集は、ここまでに紹介したレシピ集よりもさらにローカルなものになっていると感じた。仏教会や農協により書かれたものは日系コミュニティとしてのレシピだが、「ハワイのるつぼ」を例に取ると、個人名や詳細な地域の区分があり、より細かく小さな集団に注目していることが分かる。また、国に集まる移民が多様な背景を持つために、レシピ集も多彩な内容になっていることが伺える。日系に限らず、複数の文化が融合した食を感じ取れるはずである。そして、新しく現代的な料理としてのレシピ集もあった。「日系料理—和食の新しいスタイル—」は、日系人の食文化の伝承の役割を担うと同時に、料理や食そのものの発展に寄与するものだと言える。(倉成)

エスニックフードのレシピ集

 この展示で興味深かったことがいくつかある。

 まずは、日系1世と2世の人が作った代表的なすき焼きの食品サンプルである。前者は私たちにとって馴染み深いもので、牛肉や豆腐、しらたき、長ネギが入っていた。後者の方を見てみると、豆腐と長ネギの量が減っていて、味付けは濃くなり、玉ねぎやピーマン、たけのこ、セロリといった変わり種の具材が入っていた。このことから、日系人はだんだんと現地の食生活や食文化に染まっていき、すき焼きの味や具材を自分たち好みにアレンジしていったことが伺えた。

右が日系2世、左が日系1世の代表的なすき焼き

 次は、各国の日系人の食事の写真展示である。日系1世や2世といった、海外に渡って間もない人々の食卓には、おにぎりや煮物など、ぱっと見てすぐに分かるような和食が多く見られた。一方、日系3世や4世と世代を重ねていくと、漬物や味噌汁というように所々に和食の要素が含まれていて、食卓に占める和食の割合が減少傾向にあった。

各国日系人の普段の食事

 また、日系人のお正月料理の写真展示も印象的だった。日常の食卓とは打って変わって、世代関係なく、おせち料理やお雑煮など日本食としての要素が色濃く出ていて、日本にルーツがあることを大切にしたり、受け継いでいきたいという思いが伝わってきた。しかし、飲み物としてコーラや現地の炭酸飲料が用意されていて、予想外の組み合わせが面白かった。また、いくつかの家庭でのり巻きが見られたので、のり巻きは作り方が簡単で伝えやすいレシピであると共に、中の具材を自由に変えられるため、世代を重ねても受け入れられやすい料理であったのではないかと考えた。

各国日系人のお正月料理

 このように、この企画展示では、食品サンプルや写真などを目で見て楽しみながら、日系人の食生活の変遷を理解し、学ぶことができた。(樫浦)

 最後に、ご多忙のところ、今回の私たちのゼミ活動を快く受け入れてくださったJICA横浜 海外移住資料館の皆様に感謝を申し上げます。